昭和48年02月10日 月次祭



 痛いのが治ったのが有り難いのではない。何時もまめなのが有難いのじゃと。限り知れない、神様のお恵みというものは、本当に平穏無事何にもない、そういう時に一番多く、身に受けておるというわけであります。信心はその所をよぉく分からせて頂くこと。理屈で分かるのではない。心から分からせて頂くこと。心から分からせて頂かないと、そういう広大なおかげを頂いておる、只おかげ頂いておるというだけで、有り難いという感激も感動もない。有り難いち思うとりますと言うだけの事。
 ようやくまぁ時々お礼参拝どもすりゃ、もうそれで良いと言う様なそういう頂き方。そういう分かり方では、信心の生き生きした値打ち、信心は日に日にさらと仰る。そのさらな喜びに浸っていく事は出来ません。ですから何時もまめなのが有り難いのですけれども。私共はまめでない時に、いわば難儀を感じておる時に。愈々信心を解らせて頂かなければ、ならんと言う事です。痛いのが治ったのが有り難いのではない。
 いわゆる難儀から解脱出来た。難儀から開放された。その時点で有り難いというのであっては、その時は有り難い。金銭のお繰り合わせを頂いた。この頃はもう別に金銭のお繰り合わせなんか願わんでも、お繰り合わせ頂いた。おかげで無い命を助けて頂いた。この頃ではもう、身体の事はお願いせんでも良いくらいにおかげを頂いたというおかげは、段々人間と言うものは、喉をも通れば熱さを忘れるで、その有り難いというものが、冷えていくさめていくのです。ですから何時も、まめなのが有り難いと言う事が。
 もう日に日に躍動的にです。有り難いと言う事が愈々深く広く分からせて頂けれる信心を頂いとかなければならない。だから痛いのが治ったと言う事がおかげではない。その痛い時に信心を頂いた。頂いておかなければいけないと言う事になります。確かにそうです。痛いのが治ったのが有り難いのではない。何時もまめなのが有難いのだ。けれども矢張り痛い痒いから開放される。それは有り難い。本当にどうかあってみないと分からん。健康な時の有難さが分からんとこう言う。
 けれどもどうかあって健康の時の有り難さが、分からんと言う程度ではなくて。この康ではない時言うなら難儀な時に、本当の信心が分かりましたという。その苦しい時痛い時に、神様に本当にお礼の言えれる信心を頂いて、痛いのが治った時初めて、有り難いと言う事になる。それから有り難いというものは、限りなく感じられてくるのであります。今朝の御理解の中にも信心しておれば、知ったおかげより知らぬおかげの方が多いと仰る。信心をしてあれもおかげであった。
 是もおかげであったと分かる様になると、本当の信者じゃと。実を言うたらおかげと感じておるのは、氷山の一角である。まぁだまぁだおかげと言うのは随分に大きい。それで私共が十のおかげを頂いたと思う時には、二十ぐらいな気持ちで少しオーバーな位にです。有り難いを言いよらなければいけん。四神様の御教えの中にも、五つのおかげを十と喜べば、次には十のおかげと仰る。十のおかげを二十の有り難いと言や、もうその次には二十のおかげと仰る。例えて言うたら私共が十と感じておる事は。
 二十位じゃないのだ、実を言うたらそこの所がです。私共が痛い時に苦しい時に、分かった信心をもってしないと分からんのです。その時に信心を愈々、広めておかなければならんのであり、深めておかなければならんのであり、その難儀な事に対して、例えば病気をしておるなら。病気をしておる時にお礼を申し上げれる信心。所謂おかげで信心が分からせて頂きますという時が。一番素晴らしい時なのです苦しゅう御座いますと。難儀な事で御座いますけれどもこの難儀様のおかげで、信心が分からせて貰います。
 とても普通では出来そうにもない修行が出来ますと言うのでなからにゃならんと言う事が分かる。ただ痛い苦しい所から助けて頂いた。成程それもおかげに間違いない。ただそこが苦しい所を助けて頂いたと言うだけでは、もう本当に有り難いそれこそ、ない命を頂いて有り難いと言いよりますけれども。この御恩は死んでも忘れませんと言いよりますけれども。時日が経つにしたがって段々その喜びの実際と言うか、実情は段々薄いものになっておる。そして時々お礼参りをすれば良いと言う様な信心になってしまう。
 何時もまめなのが有り難い。そのまめなのが有り難いならば、何時かどうかあっておる時に、日参り夜参りしておった時以上の、例えばお参りなり、修行なりが出来なければならない筈でしょうが。それがただ痛い痒いが治ったというおかげに留まっておるから、そういう事になる。現在頂いておる難儀、現在頂いておる感じておる所の、その難儀の中にです。愈々信心の喜び、神様の大御心を分からせて貰うという信心にならなければならない。それが中々分かりません。
 今日午後の奉仕の時でした。福岡の安東さんのご主人が、奥さんが朝の御祈念に参って来よる子供さんと。昼ご主人のほうが参ってくる。丁度何人かでそこで朝のテープを聞かせて頂いておる中に、安東さんのお話が出ておった。まぁそれだからと言うわけでもなかろうけれども、頂き終わってからここへ、安東さん出て見えてからのお届けなんです。私共がもう長い間信心をさせて頂く。奥さんの信心が中心で始めの間は、合楽当時の椛目にお参りをする事を大変ご主人が嫌うておられた。
 その為に夫婦喧嘩が何回あったか分からない、と言う様な事であったですけれども。段々ご主人も一緒にお参りされるようになり、おかげを頂かれる。その家内が申しますことはお父さんあなたが何をするでも、合楽にお参りをしてお取次ぎを頂かんから、こう言う事になる。もういちいちお取次ぎを頂かせて貰わにゃと、懇々と言われるからその時には、そうだなぁとこう思いよる。実際ここにお参りをしてみるとです。何かこの辺に仕えたような気がして、お届けが出来ませんでしたと言うのである。
 それを私は今日の御理解を頂いておるうちにです。本当に有り難い事を分からせて頂いたと言うておられる。どう言う事かと言うと、私がお参りをして家内に言われる所のお取次ぎお願いをさせて貰いなさいと言うけれども、ここへ来るともう有り難いからもうその事は、言わんでも願わんでも良いと言うのとは違う。なん、この辺につかえとる。つかえてく。そして出てこない。
 それが私は今日初めて、今朝の御理解を頂かせて貰うて気付いた事は、私が御礼の信心をしていなかったからだと、気が付きましたと言う。安東さん大発見だねと私は申しました。家内が申します。お取次ぎを頂いて起きてくる事は、良い事悪い事みな良いと仰る。お取次ぎを頂かずして起きてくる事、良い事悪い事みな悪いと。こら絶対の理です。私共が今日私が申します、難儀を感じておる時にです。いうなら病気をしておる時に、その病気から解脱する。その病気から治って健康になった。
 はぁ病気をしてみなければ、健康の有り難さが分からんと言いよるけれども。さぁその健康が二年も三年も続くと、もうその有り難さと言うものは、口で言うだけで感動的なものになってこない。次の信心に現れて来ないと言う事になる。そこん所を人間の一つの弱さと言うか、いわば喉をも通れば熱さを忘れると言う事になってしまうのだ。ですからその病気なら病気をしておる時、難儀を感じておる時にです。成程お取次ぎを頂くと言う事は、良い事悪い事みな良いと言う結果が、生まれてくる体験をです。
 頂いておかなければなりません。良い事悪い事、お取次ぎを頂かずして出来た事は、結果においては必ず悪いんだ。その人一代で現れんなら、子供の代に孫の代に現れてくるんだ。それが良かろうごとあっても。私はお取次ぎの嫌疑と言うのはね、ここの辺の所を分かる事だと。金光教で言う御取次ぎを頂いてとこう言うけれども。お取次ぎを頂くと言う事が、この様に素晴らしい事だと言う事を、私はその難儀な時に芯から、分からせて頂いとかにゃいかん。
 思うて見ますと家内が言う通りで、お取次ぎを頂かずして起きてきた事はです。良かろうごとあったけれども、現在悪い事になってしもうておる。お取次ぎを頂いて行うてきた事は、その時は思うておったけれども、実際はおかげを頂いておると言う事実からです。やはり家内が言う様に、お取次ぎを頂かなければならんと言う事はです。分からせて頂いたが。ほんならお願いをしようと思うて、ここまで来ると胸が詰まって、感動して詰まるのじゃない。何かここにうっ詰まった様な感じがするち言うのです。
 そしてお取次ぎが出来ないちこう言う。どうしてだろうかと思うておったが、今日の御理解を頂かせて頂いておって、分からせて頂いた事は、私にお礼の信心が出来ていなかった。お礼の修行が出来ていなかったと確かにそうです。
 これはね本当におかげを頂いて、お礼を手厚うさせて貰うなら、この次のお願いがどんなお願いでもしよかです。これもう道理です。けれどお願いするばっかりで、お参りしとるならですね、やっぱりここに詰まってからお願いが出来ん。はぁ是が実に正直だと思うですね。それてっちゃお礼も出来んなんごつ、やっぱお願いしよると、ちった厚かましかと言わなければならない。ま、そんな事でもないでしょうけれども、今日安東さんが本当に、感じられたと言う事は。
 安東さん今日お礼が出来ていなかった。お礼の信心が出来ていなかった。お礼の修行が出来ていなかった事がお願いが、所謂お取次ぎを頂く事が出来ない事になっておった事を、感じましたと言うのです。皆さんどうでしょうか。金光様のご信心を頂いてて、もうぎりぎり、ぎりぎり分からせて頂かなければならない事はです。お取次ぎを頂かずして起きてくる事は、良い事悪い事、みな悪いのです。お取次ぎを頂かずしてお取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事悪い事、それはみな良いというのである。
 だからそれを分からせて貰うた。家内から言われて聞いて分かった。ふんそうだなと。ずぅっと永年の言うたり、そのおかげを頂いて来た事を振り返ってみるとです。成程お前が言う通りだと思うのだけれど。実際御結界に出てみると、ここに何かがうっ詰まったようになって、お願いが出来なくなってしまう。まぁ言うならばお願いが、気の毒なってくる。いやお願いをしてからおかげば頂くと、又お礼ばせにゃんけんでと、欲な気持ちでお届けをせん人すらがあるです。
 妙なこっですねそりばってん。ありますよそういうとが。もう何でんかんでんお願いしよるとこの頃、そんたんびにお礼ばせにゃいけんで、もうてぇげのこつなら自分でやらにゃん。自分でお願いしてから自分でおかげ頂く。成程おかげ頂きます。けれどもお取次ぎを頂かずして起きてきた事は、良い事悪い事みんな悪い。ここの所をです。私はもし成程お取次ぎを頂く事が、この様に有り難い尊い事になってくるんだと、私は分からせて頂いたら、大した金光様のご信者と言う事になるだろう。
 それこそ本当の信者とは、そういう信者の事を言うのだと言う事になります。所謂あれもおかげ是もおかげと分かると言う事なんですから。お取次ぎを頂いて悪い事が起こってきた。それでもおかげと言えれるんですから。素晴らしいでしょう。信心してあれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様になると、本当の信者じゃと。本当とは真実の信者じゃと書いてある。
 成程お礼を手厚うさせて貰わにゃいけんと言う事が分かる。お礼を手厚うさせて頂いて、それこそ一切をお取次ぎを中心に、事が進められていくおかげを頂いていく。そうしてです今私が申しておる事は、高橋一郎と言う有名な先生がおられました。その先生のこれはお言葉。これはもう哲理です。もう教学。私今日はある大変教学の出来た方の先生から、上野先生宛手紙が来とる。奥さんが上野先生達と同期の先生です。
 それこそ撃ち殺したっちゃ死なんごたる体格の良い方やったけれども。嫁に行かれてから、次々と難儀な病気をされる。子宮筋腫か、何かと言う病気で、絶対子供が出来ない。そん時も命に係わる様な事じゃったけれども、合楽の先生のお取次ぎを頂いて、そん時の御理解に、おかげを確信させて貰うて、お願いさせて頂いておりましたら、おかげを頂いた。こういうのである。
 この頃また具合が悪いと思うたら、妊娠二ヶ月のおかげを頂いておった。医者は絶対に、妊娠はせんと言いよったものが、妊娠のおかげを頂いたところが、身体に色々と異常があって、本人が繰り返し合楽の事を言うので、そばで見ており聞いておって、耐えられない。それで家内に代わって上野先生、お取次ぎお願いしますという、もう実に行き届いたお手紙で御座いました。それをお願いさせて貰いよりましたら、頂いた事がですね。信心から生まれる教学と言う事を頂いた。
 教学と言うのは、頭から生まれるもんのごと、皆んなが思うておる。だからそういう教学では、役には立たんと言うのである。教学が悪いというのじゃない、本部のある先生が、合楽の和賀心時代を読まれて、これはまさしく合楽教学だと言われた。私共の確かに教学ですね。一つの哲理以上の深さを持っておる御教えが沢山ですから。それはみんな私の信心修行から生まれた教学なんです。体験の伴うた教学なんです。
 そこから色々と御理解を頂いて、人が助かると言う事は大変な事だと。お取次ぎをさせて頂く先生と言う事は、本当に大変な事だと。様々な例えば絶対普通から、医学から言うたらもう妊娠は出来んというものが、妊娠のおかげを頂いて無事安産のおかげを頂く。この病気じゃもう助からんという様なものを、お取次ぎを頂いておかげを受けて、助かって初めて自分自身が、おかげが頂けると言う確信をもって、お取次ぎをさせて貰うのだから人が助かる。人が助かるという事は大変な事だ。
 取次ぎの先生方がその様な修行、苦労をさせて貰うて、始めて人は助かるのだと言う事を書いてありました。頭から生まれてくる信心とか、教学とかと言うのではなくて、体験を通して生まれてくる。高橋一郎先生のお取次ぎを頂いて、起きて来る事良い事悪い事みな良い。お取次ぎを頂かずして起きて来る事、良い事悪い事みな悪い。もうこれは金光教のやはりお取次ぎの哲理である。それを分からせて頂くというのは、ただ成程と分かるのではなくて。例えば十幾年間二十年からでしょうかね。
 安東さんが。様々な所を倒れ転びしながら通って来ておって、初めてお取次ぎを頂いて起きて来る事、みな良い悪いの事が、段々分かって来たと言う事。そこがほんなら分かってきたからお取次ぎを頂こうと、いざさせて貰うとこの辺に、何かが詰まったようで、お取次ぎが出来ない。その原因が御礼不足にあるんだと気が付いたと言うのですから。そして御礼不足で御礼の信心が出来る、御礼の修行が出来る。
 御礼の信心修行が出来させて頂く所からです。お取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事悪い事みな良いんだと体験させて頂く所から。それはお取次ぎを頂いて、かえって悪い事、困った事になったと言うても、それはおかげと言えれるという信心なんです。ですからあれもおかげである、是もおかげであると言う事が分かると同じ事でしょう。あれもおかげ是もおかげと分る様になると、本当の信者じゃと言うのです。痛いのが治ったのが有り難いのではない。
 何時もまめなのが、有り難いと教えて下さるのだけれども。ただ痛いのが治ったと言うだけではいけない。治った時にはもう信心を頂いておるからこそ、有り難いのである。それで健康になってくるのですから、又愈々有り難いそういう信心を、お互い身に付けていかなければです。信心の本当の有り難さ本当の深さ、広さに触れる事は出来ません。どうぞ、お互いが、本当の信心をさせて頂きたい。
 それにはあれもおかげ、これもおかげと分かる信心。それにはお取次ぎを頂いて、起きて来る事、良い事悪い事みな良いと確信が出来れる信心。お取次ぎを頂いていっちょんおかげのようには見えない。けれどもそん時には氷山の一角、根のほうの徳のおかげを、どんどん、神様が下さっておる時だと、信じさせて貰うて、それがおかげと言えれる信心。その時初めて、本当の信者になったと言う事が言えるのじゃないでしょうか。
   どうぞ。